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焼津神社の歴史

焼津神社のご由緒

焼津神社のご由緒

焼津神社の御創建は反正天皇4年(西暦409年)と伝えられており、今から1,600年以上も前になります。
日本武尊の知恵と勇気と優しさを称え、焼津の守神としてお祀り(おまつり)をしたことが焼津神社のはじまりです。
神社を含む一帯では、宮之腰遺跡という1,600年程昔の遺跡が出土しており、古代祭祀の道具や人々が生活していた跡が発見されていることから、その時代からこの場所に神社があったことがわかります。

室町時代に今川氏が駿河の国を治めていた頃、この地域は「入江荘(いりえのしょう)」とも呼ばれ、焼津神社はその地名から「入江大明神」とも称されてきました。境内にある江戸時代の灯籠には「入江大明神廣前」の文字が彫られています。

今川氏や徳川家などの武家の信仰も厚く、また焼津地域の人々や命がけで漁に出て働いていた漁業関係者にとっての心の支えとして崇められ、現代までその信仰が受け継がれています。

本殿

本殿

現在の本殿は慶長8年(1603年)、約400年前に徳川家康によって建てられたものです。
家康は田中城を出て焼津の浜から出港し、久能山で鷹狩に勤しんだと言われていますが、海上護衛に際して船に速度が必要であることから、通常は軍事力抑止のために禁止されている「八丁櫓(はっちょうろ)」を、焼津の船には特別な許可を与えていました。
家康は神社に対し社領を寄進し、以後歴代の将軍からこの社領を保証する朱印状が発せられていることからも、焼津神社と徳川家には深い関わりがあったことがわかります。

本殿は「流造(ながれづくり)」という建築様式で、全国の神社で最も多い様式です。屋根の作りは左右を切り落とした切妻(きりづま)の形になっており鰹木(かつおぎ)と呼ばれる丸太のような装飾や、千木(ちぎ)と呼ばれる角のような装飾があります。鰹木は元々屋根を安定させるための重しだったものが、時代とともに装飾として扱われるようになりました。
また、千木の先端が水平に切ってあるものを「内削ぎ(うちそぎ)」、垂直に切ってあるものを「外削ぎ(そとそぎ)」といいます。

幣殿・拝殿

幣殿(へいでん)とは本殿と拝殿との間にあり祭儀を行うための建物、拝殿(はいでん)とは参拝者の方々がお参りをするための建物です。
現在の幣殿と拝殿は、昭和19年に建てられたものです。
戦争という過酷な状況下にも拘わらず、この拝殿幣殿建設事業を成し遂げた当時の焼津の人々の気概を伝える建物です。
当初、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)という桧の皮用いて葺かれていましたが、昭和30年代には銅板に葺き替えられました。
平成22年に行われた1,600年記念事業により本殿・弊殿・拝殿の銅板の葺き替えが行われたため現在は赤い色をしていますが、月日が経つにつれて銅が錆びることで徐々に青く変化していきます。

昭和18年までは、幣殿は無く石垣の階段を上った所に砂利が敷き詰められていて、そこで神事が行われていました。
以前の拝殿は、江戸時代中期に建てられたもので、新たな拝殿を建てる際に移動して、今では御霊神社の拝殿になっています。
また、明治時代の社殿の絵には、本殿と拝殿の間に細い川が流れている様子が描かれています。

  • 拝殿
    拝殿
  • 幣殿
    幣殿
  • 明治時代の社殿
    明治時代の社殿

市杵島姫命社

市杵島姫命社

市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)という海の神様がお祀りされています。
日本武尊(やまとたけるのみこと)が焼津に上陸した際に、持っていた火石と水石を祠に納め、
海の神様である市杵島姫命をお祀りしたという言い伝えもあり、本殿よりも古い歴史があるという説もあります。

五社神社

五社神社

五社神社(ごしゃじんじゃ)は昔、焼津にあった森の祠にそれぞれにお祀りされた神様が四柱(天神社、天白社、藤之宮神社、王子神社)合祀されています。
また、それと併せて市神社の神様もお祀りされており、8月1日のお祭りの際には特殊神事が執り行われています。

七社神社

七社神社

七社神社(しちしゃじんじゃ)は浅間神社、竈神社、天王神社、八幡社、橘姫社、春日社、稲荷社が合殿されています。
このうち橘姫社には日本武尊の妃、弟橘姫がお祀りされており、市杵島姫命社と共に多くの女性がお参りをされます。
また竈神社では、毎年暮れの12月17日防火安全を祈る竈神社祭が執り行われています。

焼津天満宮

焼津天満宮

焼津天満宮は、学問・書道の神様である菅原道真公をお祀りしています。

「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」 という、有名な短歌があります。
これは、妬みから九州に左遷されてしまった菅原道真が京都の梅に向けて詠んだ歌で、
「春の風が吹くころには、自分がいなくても忘れずに花を咲かせ、香りを届けて欲しい。」という意味が込められています。
焼津天満宮の周囲も春になると梅が咲き乱れています。
焼津は昔から書道が盛んな町で、今でも秋と新春に天満宮書道展が開かれ、幼児から大人まで多くの作品が寄せられています。

御霊神社

御霊神社

御霊神社(みたまじんじゃ)は西南、日清、日露の戦役をはじめ大東亜戦争まで、各戦役において戦死した焼津出身の2,600余柱の英霊をお祀りしている社です。
遺族会参列のもと、毎月15日には月次祭を、10月には例祭を斎行しています。
現在の御霊神社の拝殿は、もとは本社の拝殿で江戸時代中期に建てられたものです。昭和18年、本社の拝殿を建て替えるにあたり、移築され御霊神社の拝殿となりました。

神武天皇像

神武天皇像

元々は、現在の神武通り商店街の中に、
大正天皇即位の御大礼と、周辺の工事の竣工記念と合わせて建てられたものです。
「神武通り」の由来は、この像がその場所に建てられたから名付けられたそうです。
人々の手により供出を免れた像は、戦後になってから焼津神社に移されました。

郷魂祠

郷魂祠(きょうこんし)は、大東亜戦争の最中、海外(ボルネオ・フィリピン)に第二の生産地を求め、焼津の分郷を築こうと立ち上がった「皇道産業焼津践団」の殉難者300余柱の御霊をお祀りしています。
戦時中には激化した戦況により、漁船の徴用や食料等の統制で焼津の水産業は大きな打撃を受けました。そんな中、海を渡って水産業を再開しようと立ち上がったのが、鰹節業の方々を中心とした「皇道産業焼津践団」です。

皇道産業焼津践団は現地の方々と同じ部屋に寝泊まりをし、一緒になって懸命に鰹節業に取り組んでいましたが、戦争は激化の一途をたどり、多くの人が現地徴兵され、志半ばに戦死しました。
現地では、こうした取り組みに感謝されて慰霊碑が建ち、鰹節からだしを取るという文化も根付いているそうです。

皇道産業焼津践団の南方開発団の歌に、下記のような歌詞があります。

朝な夕なの 富士の山 いつも遠くで 見ているぞ
故郷焼津の 産土神の 苦難しのんで 今日もまた
働きぬこう 勝ち抜こう

彼らは「産土神の苦難しのんで今日もまた働きぬこう勝ち抜こう」と、焼津神社の御祭神である日本武尊の全国平定の旅と自身の苦難を比べ、自らを奮い立たせていました。

現代では飛行機で数時間の場所ですが、当時は船で何ヶ月もかけて海を渡って行き、一から地盤を作った。そんな彼らの精神的な支柱となったのがこの歌なのです。

  • 郷魂祠
    郷魂祠
  • 歌詞
    歌詞

稲荷神社

稲荷神社

稲荷神社(お家再興のお稲荷さん)

稲荷の神様は元々農業の神様で、室町時代の稲荷神の御神像には、稲を担いで懸命に働いている農民の姿が描かれているものもあります。
人々が、懸命に働く神様の姿を「そうありたい、目指したい」と信仰し、商業や工業の発展とともに、やがて商業の神、工業の神としても広く信仰されるようになりました。

明治時代、市内城之腰に住んでいた人が、家督を相続しました。かつては薬問屋を営み裕福な家でしたが、その頃にはすっかり財産がなくなっていました。これを悲しんだ主は、一生懸命勉強し、また商いにも励み、見事に家を再興することができました。
この人は、稲荷の神様を深く信仰していて、家が再興できたのは稲荷の神様のお蔭と深く感謝し、境内に社を奉納しました。
これが、焼津神社境内にある稲荷神社のいわれです。

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